写真の内側・外側研究会

「写真と取りまく領域にあるさまざまな表現物に触れ、味わい、話し合う」

ウチそと研通信172 -水上勉『精進百撰』など-

すでに桜が咲いてしまったのだが、昨年の話をすると、食のダイバーシティといえばよいか、食べ物、食べることについていろいろと考えることの多い年であった。

 

令和が始まった5月の連休の頃、ベジタリアンの友人に会うことがあった。久しぶりの再会で、互いのこれまでのできごとや、今何をしているのか、これから何をしようとしているのかなどと話がはずんだ。ベジタリアンについても、いろいろと話を聞くことができた。彼女は蕎麦を食べる際、つゆは使わず生醤油で食べていた。だしにカツオを使っているからだ。また薬味のネギも食べないという。五葷(ごくん)といって禅宗などで避ける食材で、ニンニクやタマネギなども含まれる。食についても、それ以外の話でも、彼女の言葉は穏やかで、それでいてどことなく凛々しく感じられたのは、食というものを自らの意思で選んでいるという自信から来るものなのだろうか。食べ物を制限しているというベジタリアンに対する私のネガティブなイメージは間違いであった。彼女におみやげでもらった挽き肉状の大豆ミートでスパゲティを作って食べたがおいしかった。大豆自身がほのかに甘いので、味付けは砂糖少なめがよい。その後もいろいろ気になって、都内にあるビーガンのレストランやハラール対応のラーメン屋などにも行ってみた。ふだん食にあまりこだわりが無かったが、食に向きあうことの大切さということを日常の中で実感できたのだった。

 

その連休の前後、一人暮らしをしている母親の具合が悪くなり、週に何度か母親と一緒に過ごすようになった。母は食もだんだん細くなり、体もやせていったのだが、その一方で、ふつう老人が避けるような揚げものをペロリと食べたりする。好きなもの食べる。当たり前のことだが、食が単に栄養摂取だけが目的の行為ではないことを改めて考えさせられたのだった。

 

また、知っている子どもが食物アレルギーで、彼には食べられるものにいろいろと制限がある。何かを食べようとするとアレルギー成分が含まれていて、好きとか嫌いとかそれ以前に味見すらできない。命にかかわることなので、当人もまわりの人間も慎重に対応しなければならない。運良く私はアレルギーといえば軽めの花粉症ぐらいなので、甥たちがアトピーになるまでアレルギーについてはあまり考えたことがなかった。自分の食生活はなんと無頓着で雑なのだろうと最近思う。

 

新型コロナ、COVID-19が流行る前、秋に中国貴州省少数民族であるトン族の町、地捫に、彼らの文化の保存や継承のための研究や活動をしているエコミュージアムがあることを知り、当地を訪ねることがあった。コア施設内の宿泊所にお世話になり、朝昼晩と、館長をはじめとするスタッフの方々が用意してくれた食事をいただくことになった。鳥や豚など肉もあったが、基本的には野菜が中心の鍋料理で、味付けは酸味と辛みが主で香草の香りが効いている。甘さや塩辛さはあまり感じられない。私はあまり好き嫌いがない方なのでどの料理もおいしくいただいた。しかし一つだけ食べきれずに残してしまったのが、地捫に入る前日の晩に貴陽の食堂で食べたドクダミだった。もともとこのエコミュージアムの存在を教えてくれ、現地の案内から通訳、諸々の手配をしてくれた同行の中国からの留学生に勧められたのだった。ドクダミは葉の部分ではなく、白い地下茎の部分を食べる。その食堂で頼んだ料理は地下茎を香草と唐辛子でからめたおひたしだった。以前、千葉にある「房総のむら」の体験講座でドクダミの葉を煎ったドクダミ茶を自分で作って飲んだことがある。葉をよく煎ると独特の臭みが消え、ほのかに甘い香りがしておいしく感じた。しかしドクダミのおひたしは、その味も香りも少しも損なわれることはなく、食べるとドクダミの香りが口いっぱいに広がる。真夏の草むしり、あるいは路地裏の日陰にある湿った土を思い出す味だ。がんばって何口か食べてみたが、ほとんど残してしまった。このままドクダミに負けてしまうのも少々くやしいと思い、地捫を訪ねた帰りに貴陽の別のレストランでドクダミ入りのチャーハンを頼んだ。こちらはドクダミの風味が炒めた飯と相まってややマイルドになり、すべて食べることができた。

地捫にはたった2泊3日、その前後の貴陽滞在を入れても5泊6日と短期間の旅であったが、現地での食事が私の体に与えた影響は大きかった。帰国直後に行った人間ドッグではコレステロール値が前回に比べ劇的に下がり、検査結果の説明をする医師にほめられたのだった。

 

そして年末。インフルエンザ(A型の陽性でCOVID-19ではない。)にかかってしまい、久しぶりに39度超えの高熱にまいってしまったのだが、不思議なことに食欲はまったく衰えなかった。私を経由して感染して寝込んでいる妻とは別に、事前に買い込んであった食材で煮物やら焼き物やら、お節料理らしきものを作って食べていた。しかし、ただ腹一杯になるよう、そのときの気分で、思いついた食材をただ食べられる状態にして口に運ぶだけというのも芸がないと思った。新年を迎えるにあたって、自分にもできて体に良さそうな調理法はないものかとあれこれ考えて思いついたのが精進料理であった。何かよい参考書はないかと検索してみて見つけたのが水上勉の『精進百撰』だった。今年の一冊目として神保町で購入した。食に関するエピソードやこだわりもおもしろいのだが、著者自身が作った料理の美しい写真がたくさん載っており、見ているだけで楽しく愛着がわくのだ。

さっそく簡単なレシピを頭に入れて作ってみる。豆腐やこんにゃく、かぼちゃ、さつまいも等々、特に好きなわけでもなく、ふだんはあまり口にしない食材も何故かおいしく感じる。かぼちゃの煮付けなど、これまでは煮汁でひたひたにして作っていたのだが、本にあるとおり汁気をとばすと数段うまいものになった。豆腐もよく水を切ってから味噌をつけて焼いてみるとおいしい。こんな淡泊なものをうまいと思う自分にびっくりする。

こうして新たな食生活を始めるつもりではあったが、坊さんのように毎日精進というわけには行かず、時々、たまに連続で焼き鳥やらトンカツ、ラーメンなど口にしてしまうのだった。